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個性を自立力にするために興味を広げるべし

個性を自立力にするための子育てや教育のやり方について発信しています。発達障害の成人向けの話題も発信してます。クエストスクール代表荒川の個人ブログ

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「良い所を伸ばす」の解釈の違いに気が付かなかったのが失敗の始まりだったという実話

発達障害

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私は少し前まで発達障害の当事者の人と仕事をしていたのですが、いろいろと面倒なことが起こって物別れになりました。その原因を振り返ってみると【「良い所を伸ばす」という言葉の解釈の違いに気が付かなかった】という一点に集約される、というのが最近の私の見解です。どのように解釈が異なっていたのか整理してみます。

 

 

私は、苦手な部分は「それなりに」補おう、という立場

「良い所を伸ばす」と言った時に、苦手な部分の扱いについてどう考えるのか?そもそも「良い所を伸ばす」というのは具体的に何をどうすることなのか?

私の認識では、良い所を伸ばして最大限のパフォーマンスを発揮するためには、苦手のままにしておくと致命的な失敗につながる可能性がある部分を補っていく必要があると考えています。

例えば、どんなに頭が切れる人であったとしても、時間に大幅に遅れてくるようなことが頻繁にあるようでは「その頭の良さを発揮できる機会にそもそも立ち会えない」という必然的な結果が生じるわけです。

そう考えると、ADHDの人に多い「忘れ物」や「遅刻」という問題に、自分なりにどうやって対処していくかを考えていく必要があります(周囲が知恵を貸すことも必要になります)。たかが忘れ物、たかが遅刻、とは言えない場合だってあるわけです。

すべてを完璧にやるようにとは期待しませんが、大事なときには遅刻や忘れ物は避けて欲しい。そうでなければそもそも仕事というのは成立しない。なぜなら、「いつまでに、どうする」という、お客さんとの約束を果たしてお金をいただくのが仕事というものだからです。このような視点を持ちながら教育に関わっていくことが欠かせないと考えています。もし大人が視点を欠いている場合、将来、仕事をする際に割りを食うのは子どもです。

 

 

彼は苦手な部分は他の人がよろしく、という立場

一方、かつてのパートナーは「苦手な部分は他の人がよろしく」という立場でした。そもそも「苦手なこと」には2種類あります。人はみんな、この2種類の苦手なことを持って生きています。

  1. 本人の努力ではまったくどうにもならないもの
  2. 努力次第で多少は変化するもの

 「本人の努力ではまったくどうにもならないもの」に対しては、周囲の協力や理解を必要とする度合いが高くなります。また、本人は「まったくどうにもならないもの」に遭遇しないように、そのような状況を避ける努力が必要になります。

「努力次第で多少は変化するもの」に対しては、周囲も知恵を出しながら、あくまでも本人が主体的に努力することが必要になります。

では、「繰り返される大幅な遅刻」や「致命的な忘れ物」というのは「本人の努力ではまったくどうにもならないもの」なのか「努力次第で多少は変化するもの」のどちらなのか?

これは人と状況によって異なります。もし自分がしたいと思う仕事が「致命的な忘れ物」をしたらヤバイという種類の仕事であれば、努力して忘れ物を減らすためのやり方を身につける必要があります。

しかし、どう頑張っても「致命的な忘れ物」をしてしまうことが繰り返し起こってしまうのであれば、その人はその仕事には向いていないという結論になるかもしれません。障害の有無に関係なく、「向いていない仕事」というのは誰にでもあります。

仕事はあくまでも「いつまでに、どうする」という、お客さんとの約束を果たしてお金をいただくものですから、「致命的な忘れ物」をするのはお客さんに多大な迷惑を被らせることになってしまい、事業体の存続に関わることになります(例えば、ピザを配達する仕事をするのに、ピザをバイクに載せ忘れることがしょっちゅうあったら仕事になりません)。

私のかつての仕事のパートナーは非常に多くの苦手を「本人の努力ではまったくどうにもならないもの」にカテゴライズしていたようです。具体的な例としては、「(ある程度)予定通りに動く」「必要な薬を正しく飲む」は周囲の人が理解してフォローすれば良いという考え方だったようです。そして自分が時間が守れなかったり薬が飲めなかったりで仕事ができない分は周囲がフォロー(尻拭い)してね、という態度でした(実際にたくさん尻拭いした(泣))。

個人の価値観は自由ですが、このような価値観は子どもの教育には向きません。例えば、自分の生徒となる子が「負の経験を重ねたせいで人を信じられない傾向が強く、かつ、発達障害」の子だったらどうなるのか?教育どころか、さらなるトラウマを生徒に経験させることになってしまう恐れがあります。教育をしたいのであれば、自分の苦手に対処する必要がありますし、対処できないのであれば教育以外の別の仕事を探す必要があります。

 

ということで、

「良い所を伸ばす」という言葉の解釈の違いによって、私はとても多くの痛い目を見ました。言葉の定義は大切です。

 

 

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